アトピーも乳がんも2度経験。朋ちゃんのアトピー体験談(アトピーと乳がんの体験談)

朋ちゃん

「アトピーも乳がんも2度経験した朋ちゃん」
(就職してからアトピー発症。20代終わりに乳がんに。)
ステロイド歴9年。

れのあHPのブログでもおなじみ、
管理栄養士・朋ちゃんのアトピーと乳がん体験記。
「がん体質を変えるために、アトピーを治す」と
目標を決めてから、人生が変化していきました。

 

 

1.いつも、薬が手放せなかったです

小学生の時、真冬になると
手の指がしもやけになりました

ぐじゅぐじゅになった指の1本1本へ
祖母がピンク色の塗り薬をつけて
包帯を巻いてくれました

祖母は、
風邪を引いたとき、味噌をお湯で溶かして
葱をたっぷり入れた葱味噌を作ってくれたり、

お腹が痛いとき、ゆるくなったときは、
梅干しの瓶から梅酢をとってきて飲ませてくれました

寒くて震えるときは、葛湯を飲ませてくれました

ちょっと具合の悪いとき、
祖母が持ってきてくれるものは、からだに優しい食べものでした

れのあ式とそっくりなことをしてくれる人が身近にいたのに
ありがたみって病んでからしか分からないものですね
 

少し大人になって、
ドラッグストアで買い物が出来る年齢
になると、
下痢止め、痛み止め、鼻炎薬、にきび薬など
常備薬を自分で買うようになりました

しもやけは出来なくなった代わりに
生理痛は痛みがひどくて
薬を飲まずにいられませんでした

体育館で集会があると、必ずお腹が冷えて痛くなったので
前もってお腹の薬をおまじないのように飲みました

そんなことは当たり前と思って過ごしていた自分の無知が
その後こわい病気に発展したのだと思います
 

中学生~高校生時代は、運動部に入って
部活に忙しくしていました

同じ部活の仲間達と比べると、
汗をかけない体質なのか
一生懸命さが足りないのか
Tシャツを汗で濡らすことが少なくて、
当時はそれが涼しげでいいことだと思っていました

部活を引退すると
中学も高校時代も必ずかなりポッチャリと太りました

代謝がいいはずの子どもの頃から、こんな調子でした
 

薬の常用は、
給食会社に就職してからも続けていました

薬の怖さを身をもって知ることになるまで
薬を手放しませんでした

痛みや痒みを治すためには
薬を飲むことしか、考えていませんでした

そんな私でしたが、今は薬がとても嫌いです

薬を飲むと
今感じている痛み、痒み、出ている鼻水がピタッと止まるけれど、
未来の症状は改善しないことに気が付いたからです

それに
それぞれの症状には、意味があることを知ったからです

症状は、からだからの大切なお知らせです
この先、ビックイベントを起こさないためのお知らせです

そして、症状は薬で治すよりも
手当てをしてあげると、からだが喜ぶことを知りました

冷えでお腹が痛いとき
お腹を中心に身体全体を温めてあげると、
からだが喜びました
 

そして、少しずつ冷えの痛みがなくなりました

生理痛も腹痛も今はありません

だから、薬の御守りは持ち歩かなくても
生活が出来るようになりました

 

2.就職してから、アトピーになりました

高校卒業後の進路を考えたとき、
自分の歴史を振り返りました

といっても、高校3年生でしたから、
子どもの頃から好きだったことや将来なりたいことを考えたとき、
小学生の頃、給食室が大好きだったことを思い出しました

給食委員会に入っていると
お昼休みに給食室のお手伝いが出来ました

それがすごく楽しかったので
そうだ、給食室で働く人になろう

栄養士の資格を取れる地元の短大へ行き
給食会社に就職して地元の病院で働きました

ひとつ上の先輩は、手荒れや湿疹がひどいから
今月いっぱいで退職されると言っています

就職したばかりの私は
手荒れで退職されることが不思議に感じました

えっ、そんなことで仕事辞めちゃうのって思いました
 

同期の栄養士仲間はわたしを含めて3人でした

働きはじめると直ぐに、身体に異変が出ました
腕や脚、背中、からだに湿疹がでました

手荒れは、3人ともひどくて、皮膚科に通っていました

私にとって皮膚科に通うことは、ごくごく普通のことでした

仕事が休みの翌日は、手荒れが出ないよね
皮膚科の先生から、仕事変えなきゃ治らないって言われたよ

こんな話をよくしていました
 

私は、手荒れだけでなく
全身が痒くてたまりませんでした

特に木枯らしが吹き始めると
顔の皮膚がひどく乾燥して、がさがさになりました

1年中、鼻炎に悩みました

休みの日、自宅で立ち上がった瞬間
ぎっくり腰もありました

そんな私の体調を気にかけて
いつも助けてくれた二つ上の先輩がいました

早番の朝ご飯として
売店で菓子パン買って済ませていたわたしと違って、
先輩はお家からおにぎりを持ってきて食べていました

先輩は不思議と手荒れがなくて
薬が嫌いだから丈夫で良かったと笑っていました
 

わたしの20代は
よく働き、よく遊び、恋愛もしていました

アトピーの出ていた皮膚は
皮膚科へ通って、薬を塗ったり飲んだりして
痒みと赤みを抑えていました

そこに何の疑問もありませんでした

朝は3時起きで、日が昇る前に出勤して、夕飯時に帰宅、
翌日休みでも、ゆっくりすることなく遊びに出掛けていました

日常的に睡眠不足、便秘がち、
やっと出たとしても小動物のようなコロコロうんち、
生理痛は毎回ひどくて
痛み止めを飲まずにはいられませんでした

からだはたくさん悲鳴をあげていたのに
からだの声を無視し続けて
何にもわかっていなかった過去の自分でした

 

3.休日の度に病院通いをしていました、そして…

からだの不調は、もう放っておけない状態でした

車を運転して通勤途中、交通事故に遭い
むち打ち
になりました

その後、帯状疱疹になり、
肋間神経痛になりました

医者からは
帯状疱疹の後に肋間神経痛が残るなんて、年寄りみたいだ
と笑われました

年齢は20代でしたが
からだは本当に年をとっていたのだと思います
 

ある時、市民講座へ参加して
乳がんのしこりの模型を触る機会がありました

自宅に帰って、お風呂に入ったとき
模型の感触を思い出しながら、自分の胸を確認しました

ある部分でコリッとしたものに触れました

模型で触った、良性の腫瘍と悪性の腫瘍の感触の違い
指先が覚えていました

この時、直感で、これはやばい方だと思いました

直ぐには誰にも相談できなくて
お風呂に入る度、間違いであってほしいと願いながら
やり過ごしていました

やっと、決心がついて、近所のクリニックに行くと
先生から直ぐに総合病院で検査しなさいと紹介状をもらいました

 

4.乳がんと告知されて

乳がん検査の結果を病院の長椅子で待っていたとき、
自分より明らかに遅い順番の患者さん達が
次々と名前を呼ばれて、
診察を終えていきました

もう、待っている人が誰もいなくなったとき
診察の名前がやっと呼ばれました

担当していたのは、少し若手の先生でした

明らかに落ち着きなく、告知に緊張しているような
ソワソワした感じがありました

なんか嫌だなって思いました

診察室で、告知を受けて、自宅へ帰りました
記憶があいまいで、なんて言われたのか、あまり覚えていません
 

台所にいた母へ、なるべく淡々と、検査の結果を伝えました

この時は、ちゃんと両親と向き合うことが出来ませんでした

当時、お付き合いをしていた彼の家へ逃げるように自宅を出ました

少し落ち着いて、自宅へ戻ったとき
父が忘れられない言葉を言いました

“朋子、大丈夫だぞ!絶対に大丈夫だからな!”

不安でたまらない気持ちを抑え込んでいた心へ
父の言葉が熱く響きました 

父からの言葉は、それから先の私を支えてくれました
 

父は、会社の知り合いで、前立腺がんを手術はせず
生活習慣で小さくしているという方に直ぐに相談して、
がんの治療に関わる雑誌や本、情報を持ち帰ってきました

父からもらった手書きのメモには
知り合いからのアドバイスが書いてありました

からだを温めること
湯船につかること
湯たんぽを使う
靴下をはく
腹巻きをする
人参ジュースを飲む
腹八分目 等々

今ではピンとくる内容ですが、
その当時はメモを見てキョトンとしていました

けれども
直ぐにからだを温めることをはじめました

湯たんぽのからだへの当て方を教えてもらったようにやると
とても気持ちが良かったです
 

検査の結果が出てから入院するまで
3ヶ月位の時間がありました

毎晩、布団の中で、どうしようもなく不安な気持ちになって
めそめそと幾晩も泣いていました

その期間に、がんに関する情報を読みあさりました

入院する少し前、休職期間になると
1日中ネット検索をしていました

ある時、母が自営をしている美容室に届いてた
週刊誌の女性自身をパラパラ読んでいると、
運命の出会いがありました

杉浦貴之さんの記事があったのです

 

5.治療がはじまりました

若くして腎臓がんを患った杉浦貴之さんの記事は
それまで避けていたがんの話題と違いました

週刊誌の記事を夢中で読みおわったとき、
それまでとは違う思いに至ります

余命宣告までされたがんの経験者だけど、
杉浦さんは今も生きている

それに、ホノルルマラソンとやらに出たらしい

そして、杉浦さんの記事の内容は、爽やかだった
 

杉浦貴之さんのホームページを
隅から隅まで読みまくりました

若くしてがんを経験していても
マラソンしたりしながら生きている人がいると知って、
今までにない心の感覚を持ちました

しかしながら、
まだまだ「癌=死」という恐怖の公式を心の中に持ち、
恐怖に怯えながら、入院、手術、治療生活へ入っていきました
 

入院してから、もういちど乳がんの場所や大きさを
確認するための検査
がありました

すると、先生が
おや、前より小さくなっていると言いました

父の知り合いから教えてもらった
からだを温めることの効果、
そして
仕事を休職したことでストレスから離れ、
睡眠時間を確保できて、心身を休めることが出来ました

その当時は
恐ろしい腫瘍を早くからだの外へ出してもらいたい気持ちでしたから、
喜びも感じず、小さくなる意味が理解できませんでした
 

乳がんは自分の身体の一部であって、

今までの生活習慣から自分が作ったもの、
今までの生き方を変えるためのお知らせ

と理解するのは、もう少しあとでした
 

手術を受けて、入院生活がおわると
次は抗がん剤治療と放射線治療
がありました

抗がん剤治療は、先生へ受けたくないと伝えました
将来、子どもを産みたいと思っている、抗がん剤治療は受けたくない

すると先生は、
母親のいない子になることもあるのだよ
標準治療は、受けた方がいいと説明しました

両親からも当時の彼からも
お願いだから治療を受けてほしい
と懇願され、
自分の本当の気持ちを閉じ込めて、抗がん剤治療をはじめました
 

しかし、
親の顔色、医者の顔色を見るために受けるほど
甘い治療ではありませんでした

1度目の抗がん剤治療の後、
高熱と共に白血球数が激減して、無菌室へ入院
をしました

その当時は、病院に入院していると安心しました
数日間点滴をして、白血球数を上げる注射を数時間おきに受けました

こんなことになったのだから
抗がん剤治療は中止になると願っていました

でも、あと3回ね!
先生からの言葉通りに、退院してからも治療を続けました
 

治療中、誕生日を迎えました
誕生日の当日、外へ散歩に出掛けようと玄関を出たとき、
ちょうど郵便屋さんから封筒を手渡してもらいました

それは、杉浦貴之さんが編集長をしている、
メッセンジャーという冊子
でした

その時、メッセンジャーの表紙を見ながら泣き崩れました

ホノルルの砂浜で
水着姿のホノルルマラソンのがんの参加者達が
ものすごい笑顔でこちらを見ていました

その笑顔は、まぶしくてたまらなかった

抗がん剤の副作用から、全身の毛が脱毛し、
髪の毛、眉毛、まつげ…何もなくなって、
帽子を深くかぶって、マスクをして、
人目を気にして生活していました

自分がもの凄く惨めで、ちっぽけに感じて、
わんわん泣いていました

あの時の涙は、悔し涙だったように思います
 

抗がん剤治療を1度受けると
次の治療までは2週間の間隔がありました

その期間に、杉浦貴之さんのライブへ
愛知県まで両親といきました

がん患者の会へ入って
仙台へがんが治った人の話をひとりで聞きに行きました
 
そこでは
がん患者は玄米を食べなさい
野菜を食べなさい
免疫力を高めなさい
砂糖や肉は毒です

はじめて聞く言葉をぐんぐん吸収していきました

不安から逃れるため
希望の見える情報を探しては足を運びました
 

3回目の抗がん剤治療のとき、
もう1クール予定していることを先生から聞きました

これでおわりだと思っていたのに、
まだあるなんて信じられない

もう無理だよ…
さいごのはずだった4回目の抗がん剤治療中
不思議な感覚になりました

点滴液の薬が、
腕に刺した針から、血管を通って、頭の中を通って、
全身へ流れていくのをありありと感じて、
パニックになりました

人生ではじめて過呼吸を起こしました

名前を呼ぶ、看護師さん達の声が、かすかに聞こえました

その日の診察の時、やっと決心が出来ました
次の抗がん剤治療はやりません!やっと言えました
 
病院の治療がおわり、
これからどうしていこうか考えたとき
杉浦貴之さんの真似をしてみようと思い出しました

養生に行ったという穂高養生園を検索すると
キャンサーサポートプログラムの募集を目にしました

それは、がん患者に対する運動効果を
身体と心の面から研究するプログラム参加者の募集
でした

 

6. 職場復帰をした目的は、ホノルルマラソンへ行くことでした

キャンサーサポートプログラムに参加して、
同じようにがんを経験した仲間と
1年をかけて長野を拠点に過ごしました

運動プログラムに参加したことは
体力作りの自信になりました

休職して1年が経過する頃
そろそろ社会復帰の時期について考えられるようになりました
 

ある時、杉浦貴之さんのチームのチラシが
折り込まれていました

その年のホノルルマラソン参加募集のチラシでした

この時点では、
海外旅行は未経験、マラソンも未経験です

でも、
杉浦さんのチームの一員になって
ホノルルマラソンに参加してみたいと思いました

ホノルルマラソンへ行くことを目標にして
ゴールデンウィークから職場復帰をしました

その年の12月
ホノルルマラソンへ参加するために
仕事をがんばることにしたのです

 

仕事復帰をしたとき
がん患者の会の教えのひとつで、
がんを治すことを目標にしていてはいけないと言われました

何か別の目標を持ちなさいと言うので
そうだ、アトピーを治したいと思いました

私は、アトピーもずっと気になっていました

薬に頼らずに、アトピーを治すことが出来たとき
健康になれるように思いました

 

そして、
意気揚々と参加したホノルルマラソンのチームで
れのあの笛木さんに出会いました

ホノルルマラソンに参加したことが
れのあに通うきっかけになるなんて、ドラマチックでしょ
 

アトピーを治すと決めたら
ホノルルマラソンで笛木さんに出会いました

目標を決めると、スゴいことが起きるのです

そして、
ホノルルマラソンの帰りの飛行機の中
意識の変化がありました

本当は、病院の仕事を辞めたい

お付き合いをしていた彼とは、
埋められない価値観の違いがありました

私は、障がいを持つ人や
認知症のお年寄り、少し弱い立場の人達と
共に生きていく気持ちを強く持っていました

しかし彼は、価値がないと考えている人でした

人は健康でなければいけないと
強く思っている人でした

だからこそ闘病中、
私も元気になってこの人に認めてもらおうと
踏ん張れました

でも、本当は
あまりやさしいひとではありませんでした
 

ホノルルから帰国して、しばらくすると
れのあへ通いはじめました

その頃れのあは
アトピーさんのレントゲンをみて
手当てをしていました

私も、骨のレントゲン、酸化や免疫力を知るための
血液検査をしてくれる病院へ連れて行ってもらいました

その時、からだの酸化がひどくて
免疫力も弱いことを知りました

私は、がんを経験してから
玄米菜食をしていました

治療後は、薬を飲んだことはありませんでした

アトピーの事で
れのあに連れて行っていただいた病院の先生から、
私は免疫細胞の兵隊が少ないこと
兵隊の力が弱いことを
わかりやすく丁寧に説明してもらいました

がんのために勉強した今までのやり方では駄目なことを
医学的に知ることになりました

当時の私は、からだを温めることを目的にして
長時間の半身浴をしたり、靴下を何枚もはいていました

それは良いことだと信じていました

自然療法、自然治癒力、自然な衣類、食べ物、
とにかく自然へのこだわりに懲りまくっていました
 

笛木さんは、1対1で
わかりやすく根気よく、話をしてくださりました

思い出すと、泣けてくることばかりです

笛木さんのお話し、勉強会、れのあの技術、理論に夢中になり、
静岡県から車をかっ飛ばして
町田のれのあへ、休日の度に通いました

靴下の枚数は、少しずつ減っていきました

食事のこだわりが強かったので、
はじめはサプリメントを飲むことに罪悪感がありました

でも、サプリメントは
足りないところを補ってくれる必要なものになりました

そして、2011年の震災が転機となり、
実家を出て自立することを決めました

その頃すっかりアトピーは消えていました

 

7. 再就職して、再びアトピーになりました

30代の半ばを過ぎてから
はじめてのひとり暮らしをはじめました

ひとり暮らしをはじめると
一気に生活習慣が変化しました

実家で当たり前に入っていた、
湯船に入る習慣がなくなりました

喉元過ぎれば・・・ですね

就職した保育園では、
昼食を大盛りで食べるルールがありました

玄米菜食の生活から、
急に肉も魚も卵も乳製品も
何でも食べる生活へ変わりました

その途端、
それまでぐっと我慢していた食生活が爆発しました

体重は、ぐんぐん増えていき
人生最大になりました

それと同時に、アトピーの大爆発を経験しました

それまで、経験したことがない、
腕のアトピーの痒みと痛みに襲われました

皮膚が赤くはだけてドロドロ
顔もガサガサに皮膚が剥けました

れのあへ行くと、
これは痛いね、お家でも、ちゃんとケアしてあげてねと
優しく諭してもらいました

れのあへ行って、話を聞いてもらうことは
心の支えでした
 

アトピーが原因で
保育園の調理長からいじめに
あいました

そんな姿で、園児達の前に出ないでくれる!

アトピーの出ていた腕を隠すために、長袖を着ていくと、

袖をまくりなさい!と怒鳴られ、
休憩室で正座してなさいと命令を受けたこともありました

保育園の昼食は食べずにお弁当を持っていくようになると、
いじめは益々悪化していきました

このままでは心が壊れてしまうと思い、
退職しました

こんな思いをするために
わたしはひとり暮らしをはじめたわけではなかったはず!
 

アトピーを治すため
自立して暮らすための仕事を探したとき、
今の高齢者施設の募集を見つけて
就職することが出来ました

就職してから、必死で働きました

そして
高齢者施設のお年寄りが亡くなる度、
悲しくて寂しくて
自分の仕事を責める日々を過ごしました

「癌=死」という恐怖の公式に
折り合いをつけたと思っていたけれど、
お年寄りの最期の時、気持ちの折り合いをつけられなくて
苦しい日々を経験しました

食べられなくて亡くなっていくお年寄り
食べさせてあげられなくて亡くなっていくお年寄り…

自分の心の苦しく辛い気持ちを
食べることで埋めるようになりました
 

体調は、日に日に悪化していきました

それは、数年前、
乳がんの告知を受けた頃の不調
と重なりました

ふと、胸を触診すると、しこりが触れました

あぁ、またやってしまった…
 

2度目の入院、手術のあとは
直ぐに職場復帰をしました

お年寄り達のことが気になって仕方がなかったのです

それに、今度こそ、覚悟が出来ていました

もう2度とがんを繰り返さない
そのための生活をする決意
ここで生きていく決意

2度も乳がんを経験して結婚は難しいだろうから、
ひとりで生きていくために
これからの生活を整えることを決めました

恋愛なし、結婚しないかもなぁと決めていると
生きるのが楽でした

ひとりでいたら
人に振り回されたり、振り回したりしないだろう

れのあ式を説明しなくても
好きにやっていられる
好きなように玄米や雑穀を食べられる

ひとりで生きることは
楽な生き方になっていきました

 

8. お見合いをして、同棲をはじめました

ひとり暮らしをはじめてから、
月に一度は、実家へ帰っていました

両親と3人で食べる食事の時間は
とても楽しくて
リラックスする時間へと変化していました

同居していたとき、当たり前の日常が
とても大切な時間だったことに気が付きました

アトピーも2度、乳がんも2度経験し、社会復帰をしたとき、
結婚するとかしないとかは置いといて
人としてちゃんとしようと決めて生活をやり直しました

この時、ひとりで生きていける覚悟を決めました

そのために必要なことを、ちゃんとやることに決めました

遅刻はしないとか
朝は踏ん張って起きるとか
社会の中で当たり前のことを、
病気を言い訳にして、出来ていなかったのです

私は病気だから許されると思って生活していました
 

時間の認識が整っていくと
人との信頼関係が出来ていきました

そのお陰か、職場の先輩から紹介があって
お見合いをしました

お見合いの場所は、横浜みなとみらい、
海が見えるレストランでした

広々した気持ちの良いレストランで
海を眺めながら、お食事をしました

話題の中になぜか、
人生でいちばん痛かった話と言う題目で
お見合い相手が話をはじめました

痔の手術をしたときの、もの凄く痛かった話を
面白おかしく話してくれました

調子に乗って、私は乳がん手術の前日に、
乳首へもの凄く太い注射を打たれたときの話をしました

帰りの電車の中、先輩とふたりになったとき、
あんな事まで話さなくてもいいのに、
と呆れられました
 

その後、お見合い相手と
仕事の帰りに待ち合わせて食事をしたり、
休みの日にドライブへ行く仲になりました

お付き合いをする彼が出来たのは
6年?7年?ぶりのことでした

はじめて手料理を振る舞い、ふたりで食べたとき、
家族と食事をするときのような
温かい雰囲気を感じました

そして、一緒に住んでみることにしました
 

私の食のこだわりを受け入れてもらえるか
はじめは心配でした

水道水はコアへ通したものを使いたい
お米に、黒米や黒豆、雑穀を入れて炊いて食べたい

どうしても白米を食べたいとか
自分にない習慣は受け入れられないとか
いろいろな人がいると思うので、
彼はどんな人かなぁと思いながら暮らしはじめました

雑穀米もコアのお水も、
それなぁに?と興味を持ってくれました

こういうの嫌じゃないの?と聞いてみると

あなたが健康のためにやっていることでしょ
良いんじゃなーい(^^)

ホッとしました

そして、自然体のそのままの私で居られたので
このまま一緒に暮らしても大丈夫な感じがしました

そして結婚し、
今も一緒に食事を食べる時間に幸せを感じています

 

9. ウェディングドレスを着て、家族写真をとりました

結婚して1年近く過ぎてから
結婚写真を撮りたいと思い、
写真館へ行きました

本番前の試着の日
実家近くの写真館へ両親にも来てもらいました

試着室のカーテンが開いて
ドレスを着た私が出ていくと、
夫と両親の嬉しそうな笑顔がありました

特に母は、肩の大きく開いたドレスを試着したとき
こんなに綺麗になるなんて
、と、
アトピーだった頃のことを思い出して
本当に感激してくれていました

母の話しや感激している様子を見て、
夫も、そんなにひどかったのか…治って良かったなと、
労ってもらいました

アトピーだった頃
赤黒くガサガサの皮膚が見えないような
首の開きが広くなく
腕や肩の出ない洋服を選んで着ていました

でも、腕や足、背中や首に出ていた
ひどいアトピーは、もうありません

薬は症状を抑えてくれるけれど
根本的な解決にはならないと気が付かせてくれたのは
乳がんの治療を経験したときでした

これから生きていくため、
がん体質を変えるために、アトピーを治すと
目標を決めてから、人生が変化していきました

 

わたしは、出会いに恵まれていました

がんを克服した人に出会ったり、
アトピー専門店れのあに出会うことが出来ました

アトピーを治すためには
自分を根本的に変える必要がありました

一時期は自分という人間が
自分でわからなくなったことがありました

でも、どんな状況でも
笛木さんをはじめれのあの皆様に励まされ
支えてもらっていました

ひとは立ち直ることが出来るのだと
自分の経験から、今では自分自身が励まされています

そして、婚礼の華やかなドレスを着せてもらって
喜ぶ家族の顔を見ることが出来ました

今までの全ての苦しかった時間
悔しかった経験、諦めたことも、
全部があったから今の幸せを感じられるのです

ひとり暮らしをしてひとりでご飯を食べたり
家事をした経験が土台にあるから
一緒に暮らす夫が居てくれることが楽しくて仕方ありません

分担できる家事は、ありがたくてたまりません
 

アトピーは辛い病気でした
がんは怖い病気でした

今、生きているからこそ言えることですが
どちらの経験もあったから、強くなりました

身体の感覚が敏感になりました

お年寄り達のことが、大切で大好きでたまりません(笑)

アトピーを経験した人も
がんを経験した人も
世の中には結婚している経験者の人達が割といます

結婚していないのは病気を経験したからではないことに
薄々気が付いていました

それでも
わたしは無理よ、結婚しないかもしれないから、
ひとりで生きていけるように
ひとりでも楽しく暮らせるように
心を決めたことが返って結婚に繋がりました

こんな感じの私でも、結婚しちゃいまして
ひとり暮らしの開放感を味わってしまっていたので、
人と暮らすことは、煩わしいことかなとも想像したけれど
夫と暮らしてから、スゴく楽しくなりました
 

私の経験を知ってもらうことで
皆さんにも訪れるであろう、結婚や恋愛のチャンスを、
慌てず恐れず、面倒にならず、
素直に受けとるきっかけのひとつになれれば幸いです

幸せなアトピーさんが、これからも続々と誕生していくことを
楽しみに心から願っております

長文、お付き合いいただきまして本当にありがとうございました

 

10. アトピー改善写真

足の裏

 

<アトピーくらぶ れのあより>
*アトピー性皮膚炎に関する治療やお薬に関する見解は、医師または本人の責任にてご判断ください。
*本文記載内容(写真含む)の転用・複製をお断りしています。
*体験談の中には、現在れのあが行っている施術・設備とは一部異なる場合があります。
*また、食事の理論や生活全般に関するヒントも当時とは異なる場合があります。
*最新の情報は、YouTube(RenoTube)にてお伝えしています。

 
 

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アトピーくらぶ れのあ